昭和四十四年一月十五日


X御理解第六節 「目には見えぬが、神の中を分けて通りおるようなものじゃ。畑で肥をかけておろうが、道を歩いておろうが、天地金乃神の広前は世界中であるぞ。」


 目には見えないからと云う手、そこをお粗末にしてはいかません。畑で肥をかけておろうがと云う事は、どの様な汚い事をして居ろうがと云う事。又は、道を歩いて居ろうが、これは、信心の道を歩いて、行じておる様に見えてもとも頂ける。天地金乃神の広前は世界中であるぞ。

 そこで、ここで目には見えぬがとおおせられる。その神様をですね。信心によって、目にも見え、聞こえもする神様にしていく。いわゆる、そこに信心の稽古があると思うのです。

 雲をつかむようなもの、ござるやら、ござらぬやら、分からないと云う神様をです。はっきり神様はおわしますのだと、しかも、その神様は、私共氏子一人一人の上に、この様な、切実な氏子信心しておかげを受けてくれよと、いう願いを持っておられる神様と話を聞いて分かるだけではなくて、実際、私共、心で感じる。体に感じる神様にしていくところに私は、信心があると思うのです。

 御神訓の中に「天地の事は人の眼をもて知りて知り難きものぞ、恐るべし恐るべし」とありますが、人の眼をもっては分からない。そこで信心する者は肉眼をおいて、心眼を開けよとおおせられる様に、心の眼を開かせて頂くところから、天地の事も段々分かる様になり、神様の御正体とでも云おうか。御本心とでも云おうか。そういうものが手に取る様に感じられ、分かる様になってくる。

 そこで、その眼には見えぬがと云うところ、眼には見えぬが神の中を分けて通りおる様なものじゃと云うところを、まず、ひとつ信心なさいと云う訳です。

 今、私が云うた事、私が今行うた事、いや私が今心にほっと感じて事ですらを、神様は、見逃し給う神様じゃないんだと、それを信じて行うのです。生活の上に表していく、それが信心なんです。神様が見ておいでた、聞いておいだだ、いや心の中にちょっとかすめたことでも、心にちょっと思うたことでも、神様はそれを見逃がしなるのではないのだということを分からしてもらう。それを分からしていただく、それが、信心生活だと思う。

 今、自分はこげな汚い事を思いよる。神様はどげん思いござるじゃろうかと思うところに、神様すいません神様すいませんと云う。どうぞ清めて下さい清めて下さいと心に願わねばおられません。

 云うた後にハッと気が付く、こんな浅ましい事を云うて、神様聞き苦しゅうございましたでしょうと云う様に詫びていけれる。

 今、私がしておる事がはたして神様がお喜び下さるであろうかと、自分のしておる事にそういう思いをもってその行いがなされるところに、眼に見えてくる様になる。耳に聞こえてくる様になる。それを、心眼と云うのである。

 そこから、私は、信心が本当のものになってくると思うのです。ですから、いかに教えを忠実に行じていかねばならないかと云う事が分かります。

 私は先日恥ずかしい思いをした事があります。信者に不同の扱いをすなとおっしゃる。なる程、形にはしていないけれども心にしておると気がつきました。

 先日、ある若い夫婦の方が、赤ん坊つれて、宮参りをしてきた訳です。大抵、宮参りと云えば、お赤飯のひとつも炊いて、御神酒の一本もお供えして、そして、神様にお礼をして下さいと、こう云う訳なのです。

 私は、初参りの時は必ず、赤ん坊を抱いて、御神前で神様にお届けをさしてもらうのです。ですから、やはりそこには、御赤飯のひとつも、御神酒のひとつもお供えして、神様にお届けをさしてもらう訳ですけれども、その夫婦が持ってきておる者が、ぶた万十を少しばっかり買うてきておる訳です。ぶた万十で神様にお礼を申し上げて下さいと、こう云う訳なんです。

 若い者とは云えぶた万十でも持ってきて、まあ、よっぽど教えてやろうかと思うたけれども、まあ形の上に於いては、黙って当り前の様に神様にお礼も申し、又御理解を頂いて帰りました。

 私は、ここもところが目には見えないけれども大事にしなければならないと思うのです。私は、その晩、お初穂の整理をしてからびっくりした。普通に包んであるお初穂の、その中に、ひとつひとつ御赤飯料、御神酒料、お魚料として、お供えしてある。

 どうだろう私が、形の上でお粗末な事をしておったりしたら、私自身がもう赤面せないかんのであった。この様にきちっと初参りもし、お供え料としてのお初穂もこうしてきちっとしてあるのだけれども、さあ、こっちが、そこが目に見えんから、あわやその様な事でお粗末な事になりかねん。

 形の上に於いては寸分違わぬ様に、お供えをたくさん持ってくるや、大事にする。お供え物が少なかりゃお粗末にする。もう私はそこに既に、形の上では、そうでないけれども、心の上でお粗末な事をしておった。もうほんに神様が見ておいでて、もう、この男も口では偉そうな事を云いよるが、心にはこういう様な事を考えておると思うて、神様が笑いなさったろうと思うて、改めて、神様に、お詫びさせて頂いた。

 ですから、いかに眼に見えないところを大事にせないかんかと云う事が分かるでしょうが。麗々しゅう形の上ではこうやって来れば、それを大事にし、そうでないと思うたら、もうお粗末に、形の上ではしてないけれども、心の上では、お粗末にしとる。

 よくよく、眼には見えぬがとおうせられるその眼に見えぬ神様が聞いてござつ見てござると云う事をです。本当に人にかけさせて頂いとかんと、大変な失敗をするなと云う事です。

 そこには、神様の働きを、見ることも神の声を聞く事もできない。初めの間は、若い者とは云え、どうした分からん人達じゃろうか、ぶた万十どん持って来てからと思うとった。せめて赤飯でも炊いて来りゃよかつに、こげなこつでは神様にお礼も申し上げられんと云わんばっかりであった。

 そして、お初穂を開いてから、若いのに仲々行届いた事じゃあると思いよる。これではおかしいでしょうが、けれども、この様な事がどの暗いたくさんあっておるやら分からん。いわゆる形にとらわれてはなりません。姿にとらわれちゃなりません。

 これは、私の長年の体験から申しますとね。初めて参って来る、そして、あの信者は、きっといい信者になりますよと、ここで先生方が云われる。何日か参ってくると、その人をつかまえて、一生懸命ご理解する。けれども、そういう人に限って、よい信者は生まれません。

 それこど、初めの間は、どこにおるやら分からん様な、いわば、お粗末にされがちな、信者さん方が、段々段々よい信心を頂いてきて、おかげを頂いてまいります。これは、もう私がいやと云う程体験してきた。だから、この信者はいい信者だとか、この信者は悪い信者だと思うたら、既にいけないと云う事をです、感じる。

 いわゆる神様の氏子としての取扱、これは分かりがよさそうだから、この人達どんがしっかり打ち込んで、ここで総代の御用でん頂いてくれならよかろうと云う様な願いを、夢したらです。おかげ落とす事を体験しております。みすぼらしい格好をして風体もあがらん。あの人は分かる事は分かりよるじゃろうかと、云う様な人がです。もうずっといい信心になっていく人が多いです。

 ですから、ここんところをですね。私共はもうなべて、神様の氏子としての取り扱い、形の事にとらわれちゃならんと、分からして頂ながら、形にとらわれている事に気が付かせて頂いて、それこそ赤面する場合があります。

 人間ちゃ本当に汚いもんです。ですから、私共が眼に見えぬ神の仲を分けて通りおる様なものじゃ、なる程眼には見えぬけれども、目に見えぬ神様をです。私共が分からして頂く、おかげを頂く事の為に、畑で肥をかけておろうが道を歩いておろうが、「天地金乃神の広前は世界中であるぞ」と、おっしゃるのですから、それが、汚なかろうが、美しかろうが、形に於いては、どうであろうが、そこんところを、云わば無視した心。そこから、本当の信心が頂けてくる様になり、そこから、眼に見えなかった神様が眼に見える様になり、聞こえるはずのない声が聞こえる様になってっくる。

 そういう様に、普通肉眼でもってするなら軽視しなければおられない様な あっても、それを、神心をもって接するところに、そこに本当に神様を見る事がある。

 光明皇后が、千人風呂を作って、難儀をしている人達をそこに入れて、養生してやられた。ある日、体から、血のうみが流れる様な人がやってきて、助けをこうた。

 その時、光明皇后は快く引受けられると同時に、その血うみが流れておるその病人に、自分の口を寄せて、血うみを吸いとってやられて、介抱された。ところが、それは、なんと観音様の化身であったと云う様な話がある。

 これだけは、他の人にでも迷惑になるから、ことわらなきゃと云われとったらそこに観音様を見る事は出来なかった。私共でも、そういう事に直面する事がある。

 ですから、本当云ったら、それもこれも同じ見方をせなならんのですが、そこが生身であり、風夫でありますから、そういう人であればある程にです。そういう事柄であればある程です。お粗末にしなければおられない事柄の中にです。お粗末にしてはならないと云う生き方を自分の信心の生き方をしてです。心にしっかり頂いておかねばならんと云う事です。

 そこに私は、いつの場合でも神様の姿を見る事が出来る。神様の働きをそこに感ずる事が出来る。そこで私がいつも申します成り行きを大切にしてゆけと云うのである。成り行きがたとえそれがいやな事であろうが、いわば、にがい事であろうが、甘い事であろうが、いちおうはそれを有難く頂け、嫌なものは嫌いと云うて、向うへやるな。それを受けていけと云う行き方こそです。私は、神様の心を分かり、神様の姿を、見聞きする事の出来る一番の近道であると思うのです。

 そこに成り行きを大切にすると云う事がいかに大切な事か、私共では分からんのです。私共では分からんのですから成り行きを大事にしていく事を決め込んでいかにゃならんのです。それで、それがにがい事であろうが、甘い事であろうが、それを有難く頂くんだ元気な心で頂くんだと云う様に決め込んでおく。 甘いものだけは、こっちへ流れて来い、汚い、にがいものは、あっちへ行け、と云う様な事では、その向こうにある御神意と云うか、神様の本当の働き、信心しておかげを受けてくれよと云うそのおかげは、その向こうにある事を知らにゃいけません。

 甘いものばっかり流れてくる向こうにあるのじゃない。甘いものも、にがいものも、日々の生活の中に、様々な問題が起きてくる。自分に都合のいい事もあれば都合の悪い事もあるけれども、都合のええ事は大歓迎、都合の悪い事だけは、向こうの方へやって下さいと云う様な事ではです。いつ迄たっても神を見る事も間身の声を聞く事も出来ません。

 いわゆる信心しておかげを受けてくれよと云うのは、そこが信心だと思う。そこんところを大事にしていくのが信心である。そこに、信心しておかげを受けてくれよと云うおかげが、それに伴う様に、ついてきておる。

 そして、それは、汚い事であろうが、美しい事であろうが、同じ神様の働きである、神様の思いの表れであると云う事が、はっきり分かってくる様になる。そこから、とりわけわざわざ甘いものはおかげ、にがいものはおかげでないと云う様な、考え方ではなくて全てをおかげ、一切がおかげとして頂ける様になる。そこに、私は、お道の信心の有難さがあると思うのです。

 そこを分からして頂く為に、私共は、いよいよ眼に見えないところを、とりわけ大事にさせて頂くと云う行き方から、とりわけ、わざわざそこだけを大事にするのじゃない。あれもこれも、一様に大事にさせてもらう信心生活が出来る様になると思うのです。

 私共の生活の中に、成り行きを大事にさせて頂いておる。それを自分のそうだと、自分で頂き込んでおる私ですら、只今申します様な恥ずかしい事になりかねようとする事がある。

 それは、その時だけではない。いつもそんな事を感ずる。そして、そういう汚いものを、私の内容から、とりのこさせて頂いて、いよいよあれもおかげ、これもおかげ、いわゆる美しく見えるものも汚く見えるものも、皆んな神様のおかげであるとして分からしてもらうところから、一切がおかげと云う事が云える様になってくる。眼に見えるはずのない神を見る事が出来、聞こえるはずのないものが聞こえる様になる。

 天地の事は「知りて知り難きものぞ、恐るべし恐るべしと」結んでおられますがです。確かにこの恐るべし恐るべしと云う事ですけれども、私共は、そういう只今頂きます様な頂き方、そういう頂き方の中には、恐るべし恐るべしではなくて、有難いと有難いと、勿体なし勿体なしと云うおかげにかわってくる事を、私は、信じます。そういう風に信心をすすめていきたいと思う。

 眼には見えぬが神の中を分けて通りおる様な実感し、それを今はいつも、朝露のいっぱいかかっておる竹@の中を、さわさわと分けて通る様な実感、実際にさわさわと音を聞くだけじゃあない。実際、自分のすそが朝露によって濡れる。そういう実感をもって神様を頂きたいと思う。

 神様、御免下さい御免下さいと、そういう実感、そこには、私共がです。神様から笑われる様なです。恥ずかしい思いをせんですむ、おかげが頂けれると思うのです。

 どうぞ、ひとつ神様を身近かに実感させてもらいれる生活、そういう生活を、私は、本当の信心生活だと思います。どうぞ。